私たち山忠は、戦後経済の出発期に一台の靴下編み機を購入し、4人の兄弟たちで創業します。
「たったの一台では、すぐに機械が駄目になるから売らない」と、メーカーに断られたにもかかわらず、なんとか説得して購入した貴重な機械でした。
金無し、物無し、人無し、実績無し。
実績が無ければお取引先や銀行からの信用もない、『無い無いずくし』からのスタートでした。
長男(初代社長)と三男(二代目社長)が販売を担当し、次男と四男が製造を担当します。製造技術の習得に出向いた四男は、たった一ヶ月程度で覚えたと聞きます。まさに必死でした。工場は次男の自宅の2階。兄弟たちの奥さんも子供をおぶりながら手伝い、靴下を作ります。出来た製品は、問屋に出すことなく、直接行商で売り歩きました。
長男は靴下の摩耗を調べるために、夏の炎天下でも長靴を履いて販売します。
次男は、お客様の要求に応えるべく徹夜をものともせず、しぶとく物づくりに励みます。
三男は、持ち前の度胸と知恵で新規開拓します。
四男は器用に技術を高め、いつも爽やかに場を盛り立てます。
兄弟四人が、いつも仲良く力を合わせ必死に仕事をしました。
そして、人様との「ご縁」で婦人会様とのお取り引きが始まり、一気に事業が拡大していきます。創業から25年目の1983年までには、東北6県と北海道に営業所を開設いたします。商品も靴下のみならず、アパレルの企画製造まで手がけました。
やがて世の中は変わり、山忠の成長を支えた要因が変質します。
折からのバブル景気と逆行するように、80年代の山忠は試練を迎えました。大変な時だからこそ、創業者4人は社員とともに一心不乱に仕事に打ち込みます。しかし暗闇を手探りしながら進んでいるこの時期、ムードメーカーの四男が突然亡くなります。48才という働き盛りの若さでした。
バブル崩壊の90年代にはいり、山忠はようやく朝を迎えます。初代が心血を注いで作った「足うら美人」の誕生です。この商品を起爆剤に、一気に「個人客」を対象にした現在の通信販売事業へと変革いたしました。
今日の山忠は、この成長と苦難の歴史を礎にしています。